雨の日も風の日も、私は彼女の家に行く。場所は東京都庁と新宿中央公園の間、築50年近い古びた都営住宅に一人で住んでいる。陽に焼けたカーテンは閉め切っていて室内に光は入らない、古いラジオから聞こえるノイズの混じった声、埃が積もった食器、枯れたままの仏壇の花、止まったままの時計、カビだらけの雑巾、賞味期限が切れた総菜、ゴミ袋の山。彼女は過去の時間の中に、ただいる。

……いたい…あしがいたい…いたい……たすけて…たすけて…だれか……

ラジオの浮かれた声と矛盾した、消えそうな苦悶の声が襖の先から聞こえる。

蛍光灯をつけると真っ暗な部屋の中から骨と皮だけの身体が浮かびあがり、むなしく震える手が虚空を彷徨っている。痛み止めの薬を探しているのだ。

脚は動かず目も見えない。ベッドの中以外どこへも行けない。それが彼女の世界。

 私は痛み止めの薬を与え、今日の状態を傾聴と観察で把握し、血圧と体温を測り、おむつを取り替え、食事を作り、食べさせ、皿を洗う。最後にまた別の薬を飲ませ、食べ物のカスと唾で糸を引いた入れ歯を洗う。たった1時間で。

家は遠く、往復するだけで40分以上かかる。賃金計算をすれば、この仕事をするために私が金を払うようなものだ。正義感やおもいやりだけで続けていくことは難しい。彼女の家に行く前もいる間も、私は暗鬱とした気持ちになる。

 私は彼女のような人たちと出会ってからずっと考えていた。「生産性のない人間には生きる価値がない」のだろうかと。だが国の対応を見れば、国益にならない人間に使う金はないと言っていることは明らかだった。高齢者をケアする私たち介護職に対しても同様だ。そして、彼女のような人たちが企業の利益のために延命させられているのも事実だ。

自分の将来のことを考えると、こんな状態ではいたくないと思う。どのような境遇でも、居場所と活躍の場を作るべきだという思いがいつも心の片隅にあった。そんな思いが過渡期にあるときアリシヤと出会った。アリシヤは聡明で澄んだ女性だった。翻訳アプリを介し何時間も真剣に話をした。会話には苦労したが、アリシヤとのコミュニケーションは研ぎ澄まされた時間だった。私たちは介護を題材にし「寝たきりの彼女」を、もとい「寝かせられきりの彼女」を作品の主体にすることに決めた。

 後日、彼女や家族に概要を説明し承諾をいただいたうえでプロジェクトをはじめた。私は未来についてのインタビューを彼女にし、その映像を撮る。その映像とインタビューをアリシヤが編集し、彫刻や陶芸とともにインスタレーション作品にまで昇華させた。アリシヤの作品は本当に素晴らしかった。

おむつ交換などのケア内容や部屋の様子も快く撮影させてくれた。嬉々としてインタビューに応じる彼女は、今までよりも声に張りが出て生気に満ち溢れていた。少し若返ったようにさえ見えた。

アリシヤがパラダイスエアーでの発表を終えた翌日、どんな作品が出来上がったのかを事細かく話した。彼女は黙って大きくうなずきながら聞いていた。そして満面の笑みで「世の中の役に立てて本当に良かった」と言ったのだ。寝かせられきりの彼女に活躍の場を提供できたことに、私自身とても満足していた。弱者、お荷物と呼ばれている高齢者を主軸に、社会に対する警鐘を含んだ良質な作品が作れたということが、未来への輝かしい可能性を感じさせた。

 しかしそれから一週間ほどしたある日、彼女の家に訪問したスタッフから、彼女が大声で泣きながら「死にたい」と叫んでいると報告があった。私はすぐに駆け付け話を聞いた。彼女は「…私には何もできない…こんな自分をずっと面倒をみる息子がかわいそうだ…私は生きてちゃいけないのかな…どうやったら早く死ねるのか考えるようになってしまった…死にたいなんて思ったことは一度もなかったのに…」と嘆き続けた。言葉に耳を傾け、どうしてこのような変化が起きたのかを考えた。以前はとても明るく前向きで、息子さんに対しても憎まれ口ばかり言っていたのに…。感情の変化と詳しい話の内容から表出したのは、自分が「孤独」であること、身体が「動かない」こと、息子に「迷惑」をかけているということだった。まったく新しい外部社会と接触し、新しい側面から相対的に自分を見つめ直した彼女は、現在の自分の現実をありありと目の当たりにしたのだ。

それまで彼女は、自分ができる「範囲内」で自由を謳歌できていたのに。

私は、現実という生ものに手を付け作品を作ることに、改めて心しなければならないと痛感させられた。彼女が肯定的に構築してきた「自分が生きる意味」を、簡単に無自覚に破壊してしまうのだと。

 この一件があってから、彼女に対して申し訳なさとともに、より深い情を抱くようになった。彼女が亡くなるその日まで、私自身が介護の仕事に限界を感じるまではできる限りのことをしようと思った。

今、幸いにも彼女は元の前向きな性格を取り戻し「昔は太ってたから、走るよりも転がったほうがはやいんじゃないか?なんてからかわれたのよ」と笑って話してくれる。アリシヤからの音声メッセージを聞いた時も「話したわけじゃないけど、新しい友達ができたみたいで嬉しい、出会いっていいわね」と少女のような笑みをこぼした。

 彼女のように、高齢者は社会から見えないところに隔離され、私たちと同じように生き、悩み、苦しんでいる。姥捨て山と化した老人ホーム、没個性を強要するデイサービス、在宅老人ホームという名の、家に縛り付けるだけの介護…。

古い家を見かけたら想像してほしい。もしかしたらそこには、かつては若者だった「寝かせられきり」の老人がいるかもしれないと。そしてそれは、遠くない自分の未来の姿かもしれないと。

そんなことを一人考えながら、彼女を見つめていた。

私は、この仕事を辞めた後に彼女の死を知ったら、その死を悼むだろう。

しかし、私が続けている間に亡くなったら、私は心の底から、安堵する。

彼女の家を出た後、美しいものにあふれたこの世界を現実の色で汚したくなる。

そしてそれこそが、真に美しい世界なのではないかとさえ思えてくるのだ